立命館アジア太平洋大学

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学長ノート

APU20周年を祝し坂本初代学長から寄せられたメッセージ

2021/4/8

2020年10月
APU初代学長 坂本 和一
(任期:2000年1月~2004年3月)

立命館アジア太平洋大学(APU)が開設されたのは、今から20年前の、2000年4月のことでした。それは、大分県別府市十文字原という、それまで住む人のなかった草原での、前史ない、白紙からの出発でした。2000年4月、あの広大な十文字原に集まったのは世界35の国・地域から集まった一期生春期入学の約700名。APUの歴史はここから始まりました。それから約20年、APUは今や常時約6,000名の若者が全世界の約90カ国・地域から集まる、世界に誇るグローバル大学となりました。

APUは、学校法人立命館が地方自治体(大分県および別府市)と協力し、立命館学園創立100周年を記念して設立されました。APUは、日本の大学として、来たるべき時代に相応しい国際貢献を果たし、同時に日本の大学の国際化に新境地を切り開くという志の下に、学生の半数、一学年400名(開設当時。2020年には660名)を海外からの留学生(APUでは通常、「国際学生」と呼んでいる)として迎えるという考えを基本コンセプトとして組み立てられた、日本ではじめての本格的な国際大学です。

APUでは、教育プログラム、使用言語、教育組織、キャンパス・インフラ、大学を構成するすべての条件が、この「学生の半数を国際学生で構成する」という考えを前提として構築されています。

1990年代後半、このような新大学の構想が学内、学外に打ち出されたとき、それが目指す志への積極的な評価と同時に、この時点でそのような構想を一気に実現することは困難ではないか、もっと率直にいえば「無謀ではないか」という声が各方面から上げられました。

APU開設の具体的な準備は1995年から本格化することになりましたが、それは学内的にも社会的にも、「夢」と、「難しさ」「不安」が入り交じった複雑な雰囲気のなかでの出発でした。1997年後半から、日本への国際学生(留学生)の大部隊の送り出し元であるアジア全域を襲った通貨危機、経済危機は、APUプロジェクトの先行きをより一層不安にするものでした。

そのような社会状況もあり、開設当初には、APUへの進学を目指した高校生は、「そんなところへ行ってもいい就職がない!」と高等学校の先生から反対され、親からも「いい顔をされない」ような、つらい経験もしました。しかし、「WE CAN DO IT!!」のかけ声の下、このような時代に耐え、幾多の困難を克服し、今日のAPUを築いたのは、自らの大学進学の選択に誇りと自信を持ち、到来する「アジア太平洋の時代」という世界史の大道に確信を持った、他ならぬAPU学生一人一人でした。

「未来を予測する最良の方法は、自ら未来を切り拓くことである」という言葉を残したのは経営学、文明論の泰斗ピーター・ドラッカーですが、私はこの言葉を2000年4月の最初の入学式で一期生に贈りました。

学生諸君のAPUを育てる頑張りを思うとき、さらに彼らの成長を暖かく見守り応援して下さっている地元別府市民の皆さんの温かいまなざしが脳裏に浮かびます。APUを別府で開設することになったとき、責任者だった私の心配の一つは、地元市民の皆さんと世界から集まる学生がうまく折り合っていけるかどうかということでした。しかし、それは杞憂でした。いま大分、別府では、APUの学生諸君が地域に馴染み、地域の発展にも高い関心を持って貢献しようとする姿を見ます。そして、世界のどこにいても「APUに帰ろう。別府に帰ろう」と、APUと別府を思う熱い心を共有しています。

地域が学生を育て、学生が地域を盛り上げる。その中で、学生は社会を変える力を身につけていく。未来志向の、大学、学生と地域との共存の理想的な形の一つが、ここにあります。私はこれを、頼もしく、また誇らしく思っています。

いま世界中が新型コロナウイルスの感染症の暗雲に覆われています。しかしこのような暗雲も人類の英知と努力で、遠からず晴らされ、人々はコロナ後の新しい社会の創造に歩み出すでしょう。その時のために、APU生の皆さんも、APU校友の皆さんも、いまこそ力を磨き、蓄えていきましょう。

皆さんのご健闘を心から祈念いたします。



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